特別企画

東日本大震災後の被災地復興レポート

  • 掲載:2012年03月
  • 文責:仙台顧客サービスセンタ

以下、タイトルをクリックすると要旨をご覧いただけます。

東日本大震災から1年が経過して

掲載:2012年3月

本日、約11カ月振りに陸前高田市に行ってきました。震災当初は、瓦礫が町を覆い尽くし、人の営みを感じるところは皆無と言って良い程の惨状でした。今日は、瓦礫が殆ど撤去され、確実に復旧している事を実感出来ました。

震災の当日私は、盛岡のK病院の駐車場に居ました。盛岡は、沿岸部から約100km内陸に位置します。丁度、駐車場に入ろうとする時に、携帯電話の『緊急地震速報』を受信し、そのまま駐車場に入っていったところ、対面する建物のガラスが波打っており、有り得ない動きで揺れているのが、見えました。
『これはいつもの揺れとは違う』と直感したのを覚えています。その後も15分程度は揺れ続け、揺れの大きさと長さから相当大きな地震で有る事は直ぐに判りました。

盛岡(その他の多くの地域も)は、直ぐに停電となり信号機も消えており、高速道路も通行止めになった為、あっという間に渋滞が始まった事を覚えています。翌日、何とか仙台に帰ってきましたが、報道では沿岸部が壊滅的なダメージを受けていると、繰り返していました。実際には、停電だったのでテレビ、ラジオを聞く事は出来ず、断片的に送られてくるメールで知りました。


仙台駅は、完全に復旧していますが、昨年5月には現状の通りになっていました。


国道沿いの5F建ての建物は、手付かずでした。


コンビニエンスストアは、当時の場所で、営業を再開していました。


海水に満たされていた田畑は、大分海水が引いていましたが、未だ残っています。

陸前高田病院には、当社商品も多く納品されており、非常に心配でしたが、直ぐには行けませんでした。ガソリンの入手が困難である事、道路も寸断されている事、何といっても陸前高田病院が大きな津波被害を受けている事が繰り返し報道されていたので、単に心配だからという思いだけで駆けつけても、お役に立てるどころか、足手まといになるのは明らかでした。

約1ケ月経過した頃、震災後初めて陸前高田市に伺いましたが、瓦礫の撤去は道路を優先していた為、他の場所は殆ど手つかずの状態でした。陸前高田病院の敷地も瓦礫が埋め尽くされていました。何といっても病院を含む周辺の景色が一変しており、そこに有ったはずのコンビニやドラッグストア等が基礎を残して、完全に無くなっているのが、ショックでした。

陸前高田病院は、建物は残っていましたが、病院機能は失われており、人の気配は有りませんでしたが、市内の数か所で診療所として、診療を開始していました。地域の皆様の、貴重な医療機関で有る為、いち早く復興されたものと思います。

当社で出来る事は僅かでしたが、足踏み式吸引機等の貸出しを申し出るのがやっとでした。

それから、約11カ月振りに陸前高田市に伺いましたが、瓦礫の撤去は進み、何といっても震災直後には見られなかった、住民の日常的な営みが戻りつつある事が、非常に心強く感じられました。中には、プレハブであったり、移動式の店舗だったりと、まだまだ当時の施設、規模には程遠いのですが、確実に復興しつつ有るのが感じられました。陸前高田病院も仮設では有りますが、入院設備も備えた状態で再開していました。

只、瓦礫は撤去されつつ有りますが、そこここに瓦礫の山が新たに出現していました。

報道でも有る様に、相当量の瓦礫が未だ手つかずの状態です。これを被災地だけの力で、処分すると数十年を要するという報道は、頷けます。全国で、瓦礫の受け入れが進み、本当の復興が加速される事を切に願ってやみません。

最後に

東日本大震災の発生から1年が経過いたしましたが、あらためて被害の大きさを認識いたしました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りしますとともに、被災された皆様へ心よりお見舞い申し上げます。

東日本大震災から2年が経過して

掲載:2013年3月

本日、1年振りに陸前高田に行ってきました。復興とはとても言えず、復旧もまだまだ途上で有るとの印象を強く持ちました。日々、作業されている方も居ますし、今日も何台もトラックやダンプカーとすれ違いましたが、何とも人間の力は微力なのだと言う事を実感しました。

逆の言い方をすれば、人間が何年、何十年と積み重ねてきた物を、自然は一瞬にして根こそぎ破壊してしまう、猛威をふるってくるものです。改めて、備え有れば憂い無しで有る事を感じました。

一関で高速を降り、沿岸部に向かいました。陸前高田迄は、一関から約50kmです。田舎の一本道なので、信号も殆ど無く渋滞も無いので、約1時間で陸前高田と大船渡への分岐点に到着しました。

ここを右に行くと、陸前高田、左に行くと大船渡です。8年前から震災当時迄6年間、岩手県を担当していたので、良く通過した交差点です。交差点の手間の橋に差し掛かる時、早くも気になる光景を目にしました。

三陸鉄道の鉄橋が川の上で寸断され、むき出しになっていました。三陸鉄道がまだ復旧していないのは、報道で知っていましたが、鉄橋の橋げただけが、川に突き出している光景は、判っていても驚きとショックを受けるものでした。それでも、1年前は曲がった線路が更に川に突き出る様に飛び出していましたが、さすがにそれは取り外されており、徐々にでは有りますが、復旧も進んでいる事も同時に実感しました。

陸前高田に向かうと、直ぐにコンビニが有りますが、通常営業をしていました。地震直後に伺った時は、外観のみ残っていましたが、店の中は壊滅的な被害を受けていました。周りにも店が有ったと思われますが、このコンビニ以外は店舗毎津波に流されていました。ここは、海から3km程内陸に有りますが、川沿いに有る為に河口から津波が俎上してきて、被害にあわれたのだと思います。

1年前は、仮設の店舗で営業していましたが、今は本格的な店舗に建て替えられており、完全復興出来たものと思われます。昨年は、この近辺は渋滞していた【震災当日で、記念式典等で渋滞発生】事も有り、買い物をしないまま通過しましたが、今日は買い物をして僅かながらレジ横の募金箱に募金もしました。爪の先程ですが、復興のお手伝いを出来たと思います。

更に、海沿いに向かったところ、光景が一変しました。先のコンビニ付近は、仮設も多かったのですが、多くの店舗が立ち並び、更に建築中のものも有りましたので、活気溢れる光景でした。復興も実感出来ましたが、海沿いは1年前より更地が更に増えて、まっ平な土地が広がっており、とても復興とは言えない現状を目の当たりにしました。開発計画が決まっていない、地権者との調整等、難しい事も有ると思いますが、目の前に広がる光景は、非常に空しいものでした。 

1年前は、残っていた4~5階の鉄筋コンクリートの建物も殆ど無くなっており、ここに数千人が暮らしていた街が存在していたのか、疑う程でした。1年前には残っていた岩手県立高田病院も取り壊されており、何処に有ったのか探すのに苦労しました。暫くあても無く車で走っていると、病院の跡地を見つける事が出来ました。僅かに残っている壁に取り付けられた、看板でここに高田病院が存在していた事が判りました。当時は、病院の前にコンビニやドラッグストア、多くの民家も有りました。1年前は、その土台が残っており、僅かにここに人の営みが有った事が想像されましたが、今は土台も無くなり更地と瓦礫の山が点在しているだけです。病院近辺だけでは無く、何度となく街中を走っていたので、当時の光景が蘇りますが、目の前の光景と比較すると、何ともやりきれない思いです。

震災直後に伺った際、写真を撮った場所が有るので、定点ポイントとして、先のコンビニ、高田病院を含めて6か所決めています。残りの場所に移動しながら、写真を撮りました。最後に撮った場所は、国道沿いの5階建ての公営住宅です。2棟建っていますが、1棟は取り壊し中でした。写真を撮った建物自体は、まだ手つかずでしたが、来年伺う際には、取り壊されており、無くなっているものと思われます。今は、僅かに残っている建物が完全に無くなっているものでしょう。

来年は、今以上に更地が広がっているものと思いますが、復興を感じる光景も見られる事を期待しています。

今、話題になっている『奇跡の一本松』の工事風景も撮ってきました。正に、復興の象徴になると思いますが、実際の復興も加速される事を切に願います。

私は、震災では被害を受けていませんが、不自由な生活を強いられました。多少は、被災者との意識を持っていましたが、この私でも2年の歳月で既に忘れかけています。
直接被害にあわれていない、全国の皆さんはもっと忘れかけているのでは無いでしょうか?
あれだけの被害を受けた震災の記憶は風化させてはいけないと思いますので、1年に1回は今後も定点で観察していきます。

東日本大震災から3年が経過して

掲載:2014年3月

大きく激しく揺れる大地、有り得ない動きをする建物、直ぐに起きた大規模停電、いずれも久し振りに経験する、いや初めて経験するものでした。3.11 東日本大震災です。

私は盛岡で被災し、翌日自宅の有る仙台にたどり着きました。幸いにも自宅の被害も有りませんでしたが、通信を含むライフラインが全て止まり不自由な生活を強いられ、この状態が永久に続くのではないかと恐怖心を抱いておりました。私の住んでいる周辺は、1週間程度でガスを除き復旧したので、それ程大袈裟のものでは有りませんでしたが、津波被害を受けた沿岸部の方々は、未だ不自由な生活を強いられているのは、繰り返し報道されている通りです。この度、1年振りに陸前高田に行ってきましたので、ご報告致します。

昨夜3月7日、岩手県盛岡市に泊まりましたが、雪が降っていました。今朝3月8日もかなりの勢いで降っていましたが時折晴れ間が覗く事も有り、目的地の陸前高田は太平洋沿岸でもあり到着する頃には雪も止んでいるだろうと思いながら向かいました。しかし陸前高田に到着する頃は、まだ雪が降っておりました。3月とはいえ、東北はまだまだ冬です。

岩手県一関市で高速を降り一般道を1時間程度走ると、左右で大船渡と陸前高田に行く方向が変わる交差点に着きます。そこから海方面に向くと鉄道用の橋が有りました。震災当時は橋の部分は完全に流され、線路が引きちぎられて橋脚からはみ出た状態でした。1年後(2年前)には、はみ出た線路は取り除かれており、橋脚だけが取り残されている状態でしたが、それから更に2年経過した現在も橋脚だけがぽつんと取り残されています。

その交差点を右折し、陸前高田に向かったところ、直ぐにローソンが見えてきました。

震災当時は店の外観だけ残り、全てが流されていた店です。1年後(2年前)には仮設店舗で営業再開、2年後(1年前)には本格的な店舗として再開されていました。今年は、去年と変わっておりませんでしたが、私にとっては思い入れのある店なので、買い物をしてレジ横の募金箱に小銭を入れてきました。

コンビニを含む一帯は、海から2~3km離れているので、川沿い【コンビニは川沿い】を除き被害は拡大しておりませんでした。その分復旧も早く、未だ仮設店舗が多いのですが、大分元の町並みを取り戻しつつ有ります。本格的な店舗もちらほら出来ております。

それから更に海に向かうと、景色は一変します。1年後(2年前)と殆ど変わらない光景です。震災直後は、道路の脇に瓦礫が積み上げられていました、1年後(2年前)は取り除かれていましたが、その後更に2 年経過した現在も殆ど変わっておりません。

旧市街地は、当社がいくつもの商品を納めていた陸前高田病院も含む街並みが有りましたが、今は全く何も残っておりません。陸前高田病院には、何度となく訪問しましたし、病院前のコンビニやドラッグストアー等も未だに目に焼き付いています。

1年後(2年前)は、まだ病院の建物が残されており、2年後(1年前)は看板を含む塀や土台が残されていたので、そこに病院が存在していた事が判りましたが、今は何も残されてなく見渡す限り更地でした。今は、何処に病院が有ったのかも判りません。
震災直後は、至る所に有った瓦礫の山が1年後にはなくなり、2年後には土台を残し撤去され、3年後の現在は更地になっているので、確実に少しづつ復旧されているのは判りますが、自然災害の脅威の前に人間の出来る事は限らており、完全に復旧復興するには膨大な時間を要するものだと、改めて実感しました。

しばらく国道を走っていると、国道沿いに有った5階ての建物が未だ残っていました。
去年はまだ、他にも4~5 階建ての建物が幾つか残っていましたが、今は見渡す限りこの建物以外は有りません。変な期待の持ち方ですが、来年はこの建物も撤去され、復旧がより進み、完了する事を期待しています。

復旧と共に僅かではありますが、復興も感じる部分も有ります。高台移転先と沿岸部を結ぶ工事用の大規模なベルトコンベアーが設置されていました。土砂の運搬等に使われている様ですが、これを設置する事で工事の期間が大幅に短縮される事でしょう。

その他にも、他県ナンバーのトラックやダンプカーも多く見受けられました。一昨年よりも昨年、昨年よりも現在の方がより多くの重機を目にしますし、先のベルトコンベアーの様に、工事の為のものと思われる建造物が増えております。復旧から確実に復興に軸足が移っている事も感じられます。

最後に、奇跡の一本松に行きました。昨年は、植え替えている途中で足場が未だ残っていましたし、その後再度植え替えられたと報道されていました。
今は、完全に植え替えられており、記念プレートも設置されていました。これが有る事で、今後永久に震災の記憶が風化されない事を願っております。

震災が起きて3年が経過しますが、津波の被害者の生活はまだまだ元に戻らない事は報道されておりますし、今回改めて実感しました。復旧だけでもこれだけの期間を要しており、完全復興にはどれだけの時間を要するのかは想像もつきません。

東北の復興事業と東京オリンピックの影響で、建築資材や人件費が高騰して、公共事業が滞ているとの報道も複雑な思いで聞いております。復興の為の補助金も使い勝手が悪く、中々現地に届いておりません。諸事情は有ると思いますが、被害地区の復興が今後加速される事を切に願って止みません。

東日本大震災から4年が経過して

掲載:2015年3月

大きく長い揺れ、直ぐに起きた大規模停電及び信号のマヒによる大渋滞、高速道路は通行止めになり、一般道路も至るところに陥没や亀裂が走りました。
その後しばらく続いた不自由な生活、そして何より10,000人を優に超える犠牲者が出た東日本大震災が発生してから、4年経過します。毎年3月初旬に陸前高田に訪問しておりますが、今年も行ってきましたので、現地の様子を報告致します。

東北道の一関ICで下り、陸前高田方面に向かいました。約50kmなので、1時間で到着します。左に行けば大船渡、右に行けば陸前高田に向かう交差点(以下交差点)に差し掛かり、車を降りて気になるところを見てきました。

元々は鉄橋が掛かっており、陸前高田から内陸(一関方面)に向かう線路用のものです。
震災直後(2か月後)は、線路が橋脚から引きちぎられた状態で飛び出しており、津波の威力をまざまざと見せつけられた個所ですが、1年後に訪れた時は線路は撤去され、橋脚だけが残されていました。
その後は、現在に至る迄変化が無く、今でも橋脚だけが取り残された状態です。沿岸部を走る三陸鉄道は、なにかとテレビでも取り上げられますが、本線は置き去りになっている様にも感じます。
詳細を知る由はありませんが、途中の線路にはロープが貼られていたので、当分の間再開は無いものと思われます。

その後、陸前高田方面に向かうと大分復興が進んでいる事を実感出来ました。震災直後は、生活感を感じるものが殆どありませんでしたが、1年後には仮設の店舗が何店か出来ており、2年後は更に増え常設の建物も目立ち始め、3年後は更に増えていました。
今回は、更に市街地から離れる方向に店が増えており、復興だけではなく、新たな開発も進んでいる事を感じました。それに先程、復旧が置き去りになっているのかと思った、鉄道が形を変えて復活しているのも確認出来ました。

BRT(bus rapid transit)に形を変えて新たな駅(バス停)も完成しており、線路があったであろう場所は綺麗に舗装されていました。既に運行もされているのでしょう。
沿岸部の路線も線路を再建するか、BRTにするかで論争があるやに報道もされており、地元住民の方々の胸中は計り知れませんが、復興のスピードはBRTの方が遙かに早いと聞いていますので、致し方無いのではないかと思います。
駅(バス停)が出来た事で、周辺に新たに店舗も増え、結果的には地域に受け入れられているものと思われます。

もうしばらく進むと、自分自身勝手に定点観測のポイントとしていた、ローソンが見えてきました。2年目に常設の店舗になっているので、今後当分の間は変わる事は無いと思いますので、定点観測のポイントは今年限りにしようと思います。

昨年に続き買い物をして、レジの横の募金箱に募金をしてきました。因みに、交差点からここに至る迄は、昨年迄はこのローソン以外にはコンビニがありませんでしたが、今年は交差点を曲がった直後にセブンイレブンがあり、別のローソンもあり、100円均一の店も出来ておりました。

そのまましばらく行くと、小高い山を越えて沿岸部に出る事が出来ます。交差点から、この小高い山の手前は海岸部よりは標高も高いので、被害は無いものと想像されるかもしれませんが、川に沿って津波が遡上してきた為に被害を受けておりました。只、川に沿った部分的な被害だったので、沿岸部に比べても復旧、復興のスピードは格段に速かったものと思われます。今となっては初めて訪れる人には、津波被害があった事が判らないのではないかと思うくらいの、復興がなされていました。

小高い山を越えて、沿岸部に差し掛かると、大きな平地が広がり陸前高田市の主要な施設や多くの住居が軒を連ねていた地域です。小高い山を超えて、平地に向いたところが定点観測のポイントです。

震災直後は、米軍の『トモダチ作戦』で道路の瓦礫撤去が最優先されていたので、道路を進む事が出来ましたが、瓦礫は道路沿いに山積み状態でした。

1年後は瓦礫は減っておりましたが、未だ残されておりました。2年後は瓦礫は撤去されていましたが、その後(3年後)の光景は殆ど変わりありませんでした。

この一帯の復興がどうなっているかが、気になり毎回どきどきしながら小高い山を越えておりました。今回も期待半分、不安半分で超えたところ、喜びと失望を同時に感じてしまいました。喜びとは、以下の様な変化を確認出来たからです。

今回は、嵩上げされた造成地が至るところに出来ており、いよいよ本格的に復興が進み始めた事を実感出来ました。失望とは、喜びと裏腹なのですが、造成中とは言え未だに建物らしきものは着工すらされておらず、このままのペースで進んだら元の街並みに戻るのに何年掛かるか不安になった事です。

人間の営みは中断する事は出来ませんので、陸前高田を離れて暮らさざるを得ない方々が沢山居るはずです。既に4年、今後まだ数年掛かって街並みが復活しても、或いは新たに開発されても、全ての元の住民が戻って来る事が出来るのでしょうか?現在生活している環境に慣れる事もあるでしょうし、理屈抜きでそこ(陸前高田以外)での生活が長くなればなる程、離れられなくなる事も増えるでしょう。とにかく、一刻も早い完全復興が成される事を切に希望しています。

以前は、県立高田病院の跡地迄近づく事が出来ましたが、今は平地一帯が造成中という事もあり、殆どの地域が立ち入り禁止になっていました。見渡す限り平らな部分は造成されており、殆ど海抜から10m以上の高さになっているのではないでしょうか?

定点ポイントにしていた道の駅の建物は、昨年迄はかなり遠くから写真を撮る事で出来ていましたが、今年は造成地が丘の様になっており、いつもの場所では撮れませんでした。かなり近寄り、造成地の右肩の上の方にかすかに建物の屋根が見えます。

因みに、この道の駅は私も担当している頃には良く利用しておりました。松林が目の前に広がり、景色も良かったので観光客も多い所でした。地震当日は金曜でもあり、観光客も多かったのではないかと想像します。私自身、金曜日は盛岡からの帰り道に、沿岸部(大船渡・陸前高田)に寄る事が多かったので、場合によっては巻き込まれていたかも知れないと、ふと思い出す事もあります。仮に巻き込まれていたら、果たして冷静な行動が取れたかかどうかは、疑問の残るところです。

昨年は沿岸部と高台を結ぶベルトコンベアー1本しかなかったのですが、今年は平地の至るところに出来ておりました。平地に無数に造成地を作り上げ、その殆ど(多分全部)が10m以上嵩上げされております。相当量の土砂を運びこんでいるものと思われますが、あれを全てダンプカーで運ぶよりも、最初にしっかりとしたベルトコンベアーを建設する事により、却って効率も上がり、工期も短くなるものと思われます。

去年迄は、1年毎に他県ナンバーのトラックやダンプカーが増えていましたが、今年はめっきり減っています。このベルトコンベアーの威力だと思われます。思えば、現在の東京の原型が関東大震災後の都市計画にありますが、災害の度に新たな土木工法、建築工法が飛躍的に発展し、町作りに活かされてきた事でしょう。只、やはり多くの方々の犠牲があっての事は忘れてはならない事です。

奇跡の一本松に行ってみました。それ自身は昨年と変わりなく、今後も変わらないものと思われますが、いくつか感じるところがありました。

まず、背後にある建物が未だ震災当時のまま残されており、哀れな姿をさらけ出しています。
復興が進みつつありますが、未だ復旧の目処が立っていない部分も多くあります。
定点観測ポイントの道の駅も建物は残されていますが、全く機能しておりませんので、取り壊されるのは明らかですが、何時になったら撤去されるのでしょうか。
奇跡の一本松は復興の象徴であると同時に、数少ない観光資源にもなっております。

昨年は、プレハブのお土産屋さんが1件のみでしたが、広い駐車場が整備され、常設のお土産屋さん、複数の食堂、情報発信館等が出来ておりました。商魂逞しいと思いますが、ゆとりが出来てきた証拠ですし、正にシンボルとなり観光客を呼び込む事で、復興が加速される事でしょう。余談ですが、駐車場に整備されていたトイレが、水と電気を使わないとの事で、最先端の設備なっていました。

もう一つ、『奇跡の一本松支援自動販売機』なるものも設置されておりましたので、当然1本購入しました、因みに私が購入するのは、『紅茶花伝』『ロイヤルミルクティー』の何れかです。

気になる個所があり、見てきました。国道沿いにある5階建て建物です。
3年目の昨年には、手付かずで取り残されており、取り残されている事自体が、私にとって気になる事であり、まだまだ復旧も途上だと思わざるを得ない存在でした。
今年はどうかと気になりながら車を走らせると、何も無い場所ですから、かなり遠い場所から取り残されているのが見えました。先の道の駅同様、撤去もされず取り残されている訳です。
優先順位は知る由もありませんが、使われなくなった建物が撤去されない事には、完全復興には程遠い様にも感じます。作業をして居られる方は、諸事情を乗り越えて懸命に作業されていると思いますので、軽々しくは言えませんが、復興のスピードアップを切に願うものであります。

最後に県立高田病院にも行ってきました。まだ診療所のみです。現在造成されている個所に、新たに完全移転されるものと思いますが、まだまだ時間を要する事が容易に想像出来ます。

いつもこの時期(3月初旬)になると、震災に関する報道が増えてきますが、今年は例年より少なかった様に感じます。

来年は節目の年(5年目)なので、一時的に増えると思いますが、再来年以降は年を追う毎に、報道量は減るものと思われます。報道量に関係なく、皆さんの記憶から忘れ去られない事を願っています。

東日本大震災から5年が経過して

掲載:2016年3月

昨日、陸前高田に1年振りに行ってきました。
本レポートを震災後1年に一度社内向けに報告しているためです。しかし、1年振りと言うのは、表向き及び社内向けのもので、実は7カ月振りです。昨年の7月下旬に、高校時代の同級生が来仙した際、現地を案内してきました。その際は、3月に訪問し、5カ月弱しか経っていなかったので、全く変わり映えしませんでした。今回も、それから7カ月しか経っていないので、余り変わっていないのではないかと言う不安と、いやいや変わっているはずだとの期待を織り交ぜながら、現地に向かいました。

3月2日に行った訳ですが、実は2月下旬にも一度現地に向かっています。その時は、一関から陸前高田に向けた一本道を走り、後10kmを切った地点で、通行止めになってしまい、陸前高田には行けませんでした。交通整理の方に尋ねてみると、『気仙沼を経由しないと陸前高田には行けない』との事だったので、当日は諦め、改めて出直した次第です。

それで今回は、盛岡から南下しながら陸前高田に向いましたが、この道はほぼ5年振りだったので、途中の道の駅が改装されていたり、テナントで入居している店が変わっていたりと新たな発見がいくつかありました。

本題に戻ります。一関から続く一本道を陸前高田に向うのが通常のルートですが、今回は大船渡から少し内陸の道を陸前高田に向いました。一関から続いている道の交差点が、毎年本レポートの出発点になっています。そこで一度車を降り、川に突き出ている橋脚を確認してきました。

震災直後と1年後は線路が引きちぎられた状態で、橋脚から突き出ていましたが、現在は線路は撤去され、橋脚のみが川に突き出ている状態です。
この風景は、これで4年続けて見るものですが、進展は今のところ見られていません。その一方で、BRT(バス高速輸送システム)も益々整備され、市民の足として定着している様です。昨年の12月に新たな駅ができたとの広告が貼られていました。

そこから川沿いに海に向って行くと、見慣れた街並みが見えてきました。ここは、川に沿って津波が俎上してきた地域で、川の両脇が大きな被害を受けていました。
1年目は、まだまだ復旧もされていない感じでしたが、2年目からは徐々に復旧が進み、現在では当時の街並みを取り戻しているのではないでしょうか?
実は、この周辺は陸前高田の中心地ではなかったので、何度も通ってはいたのですが、当時の街並みの記憶がありません。震災後、1年毎に通っていく内に、街並みが少しずつ復旧復興している姿を見てきたので、見慣れた雰囲気ではあるのですが、実際は震災後の風景しか記憶にありません。

この周辺は、市民や復興のための工事を行う職人さんの足場になっている様です。簡易宿舎もありますし、仕事や生活する上で必要な物資を購入する店が、1年毎に増えています。仕事の後の楽しみであろう、スナックや居酒屋もありました。最初はコンビニが2件でしたが、今は新たに2件増え、4件になっていました。その他の店も1~2年目に訪問した時よりも増えています。
未だ仮設(プレハブ)も多いのですが、恒久的な建物も確実に増え、現在では逆転しているかもしれません。今年も、震災前からあり私の思い入れの強いローソンで買い物をしてきました。

この周辺は、津波の被害も川沿いに限定されていたので、復旧復興も早く毎年変化もあるのですが、そこから暫く進み高台を超えると、陸前高田の旧市街地になります。震災直後の悲惨な光景は今でも脳裏に焼き付いているので、その高台を抜ける時が一番緊張する瞬間です。

少しずつ、道路の両脇に建物もできており、復興を感じましたが、海に近付くにつれまだまだ復興途上である光景に変わっていきました。建物を建てるためだと思いますが、道路の両脇が計画的に嵩上げされています。
しかし、建物そのものは一切ありません。一見すると昨年と変わらないのですが、昨年は土砂運搬用のベルトコンベアー用の陸橋が縦横に張り巡らされていたのが、一部を除き全て撤去されていました。後から別の看板で確認したのですが、土砂の運搬は昨年の9月で終了したとの事でした。
一部残っているのは、海岸沿いから高台に向けた橋脚部分です。これは、ベルトコンベアーは取り外しても橋脚部分は、将来の有効活用のために残しているのだと思います。片側一車線は確保できそうな幅広さがありますので、近い将来道路が掛けられるのではないかと思います。

旧市街地を通り抜けると、奇跡の一本松に近付きます。昨年もできていましたが、駐車場があり仮設ではありますが、複数の飲食店が軒を連ねています。商魂逞しいとは思いますが、数少ない観光資源ですので、有効に活用し少しでも多くの観光客が訪れ、復興が加速される事を願うばかりです。因みに、私は昨年に続き、支援自動販売機で、紅茶花伝のロイヤルミルクティを買いました。

駐車場に車を停めて、奇跡の一本松に行きましたが、私にはどうしても気になる事があります。奇跡の一本松の後ろに津波の被害を受けた建物があるのですが、昨年の時点では未だ撤去されておりませんでした。
今年こそは撤去されているかと思いながら、奇跡の一本松まで行きましたが、やはり未だ撤去されておりませんでした。何を目的とした建物かは判りませんが、この建物を見ると、津波の悲惨さを思い出さずにはおれません。

駐車場に戻り、海沿いの道を走りましたが、ここでも撤去されていない建物が残っていました。私も何度とのなく昼食で利用した道の駅です。
震災が金曜日の午後だったので、昼食で利用しなくても立ち寄っても不思議ではない曜日であり時間帯だったので、ここを訪れる度にぞっとする思いです。

その敷地内に、『東日本大震災 追悼施設』がある事を知り、初めて訪ねてきました。調べてみたところ、3年前にできていましたが、昨年迄は何度も通りすぎていても、気が付きませんでした。その中には、千羽鶴や供花が供えられていました。
供花には、津波で娘さん(しかもお二人)を亡くされたであろうお母さんから、天国の娘さんへ宛てた手紙が添えられていました。生前の何気ない振る舞いを記している内容でしたが、私は感極まり不覚にも落涙してしまいました。今でも思い出すと、胸が締め付けられる思いです。私も二人の子を持つ親の端くれです。子供達が自分より先に死ぬ等、考えられません。きっと、このお母さんの悲しみも癒える事はないでしょう。

もうしばらく海沿いを走ると、これも見慣れたマンション(会社の寮かもしれない)が残っていました。奇跡の一本松の後方の建物、道の駅、このマンションが見渡す限りでは、撤去されていない大きな建物です。優先順位は判りませんし、作業する方々は、日々業務に励まれているものと思いますが、できるだけ早くこの3つの建物が撤去される事を願っております。

更に進み、陸前高田市を外れる辺りに平和の象徴(私が勝手に思っている)、イオンスーパーセンターがありました。中にも入りましたが、活気に溢れています。陸前高田の方々も力強く生活し、復興に向けて日々歩まれているのを強く感じました。

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